番外編
釜丸釜与次郎造
水指信楽一重口 悟造
薄器時代高台寺蒔絵
茶杓覚々斎作
茶碗ムキ栗写悟造
長次郎に関わる道具組となりました。
簡単に説明させて頂きます。
まず釜ですが、作者である与次郎は安土桃山時代に、
千利休の釜師として数々の名作を生み出しました。
そして当代第一の釜師として秀吉から「天下一」の称号を許された人物です。
京都の三条で製作していたとされ、
ひょっとすると長次郎と顔見知りだったかもしれないことに夢を膨らませます。
(インターネットで調べてみるとほぼ生没未詳とありましたが、ある人名辞典では1588~1641年頃とあり、そうなると長次郎が亡くなった年に1、2歳であり、利休が亡くなったとき10歳頃で秀吉や利休の釜師であったことは考えにくいのですが…)
私としては秀吉、利休、長次郎と共にその時代を生きた名工と考えております。
少し話しが飛びますが、与次郎の代表作の一つに四方釜がありますが、
四方の形の釜は古くは芦屋釜、天命釜にもみられますが、与次郎の作った四方釜と長次郎のムキ栗の形は驚くほど似ていて、利休がその形を好んだのは間違いないと思うのですが、私は長次郎の茶碗を与次郎がまねたのか、又はその逆なのかがとても知りたいです。
他の丸釜と長次郎の宗易形も大変よく似ています。
黒茶碗のユズ肌なんかも釜とそっくりで…、
釜と茶碗の関係性をもっと探っていきたいです。
そして四方釜に四方茶碗を組み合わせるのが当時流行ったのかも?
等々と謎は深まります。
薄器の棗なのですが、濃茶の会に薄茶器を使うのは普通は無いのですが、黒無地の中棗か小棗を使うことは棗濃茶として親しまれています。千利休の曾孫、仙叟が選定した「仙叟十二器」など利休以来のすぐれた形を集めたものもあります。
黒棗も用意して頂いていたのですが、今回は茶室の炉ではなく、自宅で撮影した為、囲炉裏が目立ちすぎ、棗に華やかな高台寺蒔絵を使うことになりました。
茶杓は江戸中期の茶人で表千家六世家元の覚々斎の作で、
覚々斎といえば長次郎の黒四方茶碗をムキ栗との銘をつけた人物です。
今回このような道具組をして頂いたのですが、こうなってくると私の茶碗だけが写しのなんちゃて状態であるのはかなり恥ずかしいのですが、私にとってこの夢の競演に友人に感謝であります。
その場で一服頂かなかったのが心残りです。
この撮影を通して感じたことは、まずムキ栗写しがあり、それに合わせ釜、棗、茶杓など物(道具)と物の組み合わせを考え、空間、空気を作り出すことが面白くそれが茶の湯の醍醐味だということです。
5月31日からの渋谷、炎色野の個展DMの写真です。
お越し頂けると幸いです。